臣屋阿部家住宅主屋 所見
田代島は石巻市の東南約17kmに位置し、南三陸金華山国定公園のエリアにあったが、東日本大震災以降の2015年に三陸復興国立公園と名称を改められたことにより、このエリア内となっている。
総面積3.14km2、周囲11.5kmの南北に広がる丘陵性の島で、南東部の仁斗田、北東部の大泊の2集落がある。産業は漁業中心であり、二つの海流の交わる漁場に恵まれており、また牡蠣養殖なども盛んであったが、過疎が進んでいたところに東日本大震災の影響を受け、100名を越える人口が、現在は80名以下となっている。島の各戸には現在も呼称されている「屋号」があり、それは平安期の安倍貞任伝説までさかのぼると言い伝えられている。
阿部家は明治期から島の定置網の元締めとして田代島の仁斗田集落を代表する家であり、現在も屋号である「臣(しんや)」、又は持ち船の名前で「八興丸(はっこうまる)」と呼ばれている。臣屋阿部家は仁斗田の高台に位置し、400坪ほどの敷地に主屋、離れ、瀬戸物小屋、味噌小屋がある。
田代島は明治29年の大津波、昭和8年の三陸大津波、昭和33年のチリ津波、そして先の東日本大震災による大津波の被害にあっている。また、仁斗田地区は明治42年に大火があり、臣屋阿部家より下に位置する建物の多くは焼失しており、これらの度重なる災害により、地区内には古い建造物があまり残っていない。そのような地域において、臣屋阿部家住宅主屋は、棟札によれば施主・阿部庄太郎、大工・鈴木清之助により明治14年に建築された、仁斗田地区ではかなり古い建物である。
規模は桁行8間・梁間5間に、北面に半間の下屋がつき、また、南西に昭和25年に増築された3坪の洋間、拡幅された広縁がある。台所を東に7尺ほど広げたのもこの時期と思われる。木造平屋建、入母屋桟瓦葺き、南面のみ出桁造りである。外壁は下屋や腰壁には横板張にペンキが施され、腰壁から上部は白漆喰塗りである。軒は1軒、化粧垂木は1間4つ割りである。瓦は当初は土瓦であったが、洋間が増築された際に赤瓦に葺き替えられた。開口部も主要な部分は近年、アルミサッシュに取り換えた。
平面は南の玄関から北に「元台所」の炉・天窓のある10畳間、その西に神棚・仏壇を備えた15畳の「おかみ」、8畳間の「座敷」。その北側に床の間・棚・付書院を備えた8畳間の「奥座敷」が続く。主屋の西・南には廊下がつき、それを挟んで南西側に増築された洋室の「応接間」がとりつく。主屋の東側は「ハシリ(台所)」、北側は「裏座」「居間」がある。この「裏座」の部分に小屋裏部屋があり、現在は納戸として使用されている。昭和25年までは「おかみ」部分には天井がなく、小屋裏も柿渋を塗った仕上げが施されており、均整のとれた小屋組が残されている。
内部仕上げは「おかみ」「座敷」にはせいが1尺の漆塗の欅板鴨居がまわり、また座敷まわりの柱・束・長押も漆塗が施され格式が高い。障子建具も部分的に小障子の取り外しができ、夏障子の葦簀とすることができる。座敷廻りの天井は、いずれも竿縁天井であり、3部屋ともに天井高さが3.3mと大変高い。「奥座敷」「座敷」は聚楽壁、それが以外の和室は漆喰塗の壁である。「応接間」は洋風の意匠とし、床をパーケットフロア、板をパネル化した腰壁に上部を色漆喰塗壁、天井はモールディングを施した白漆喰塗としている。古くから外国との行き来をしていた家柄であることが想像できる。
隆盛を誇っていた大正・昭和中期まで、出船・入船の際には「奥座敷」「座敷」「おかみ」「元台所」「広縁」にて、100名程の膳を並べての宴が催されたという。島民が減少し中世からの歴史を語り継ぐ景観も失われつつあり、現在は「猫島」としてのみ知られるようになっている田代島にとって、臣屋阿部家住宅主屋は残り少ない建造物であることは間違いない。東日本大震災後、多くのボランティアによりメンテナンスを行われ当初の姿をよく留めている。外観意匠も大変整っており、国土の歴史的景観に寄与し、また再現することが容易でないものに該当すると考えている。
【所見記入者】株式会社伝統建築研究所 高橋直子
